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ルヴェ・ギベール著『幻のイマージュ』
(『アサヒカメラ』1996年4月号[IMAGE STATION]、朝日新聞社刊)
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小ぶりで端正な書物ながら、印象深い装丁が目をひく。おそらく著者自身のポートレイトなのだろう。ジャケットと一体になった帯に印刷された、わずかに明瞭さを欠いたモノクロームの写真は、強い視線をこちら側へと放っている。そのように思えたとしても不思議はない。じっさい本書のなかで描かれる彼の視線は、眼前の現実をことごとく「映像」として捉えることを辞さない。神話のメドゥーサさながら――しかし主体と客体の関係はここでは転倒しているが――対象を石化する視線。
 著者のエルヴェ・ギベールは小説家であり、またすでに邦訳のある『写真書物』(ペヨトル工房)などで写真家としてもよく知られている。そのほとんどが「ぼく」という一人称で書かれている64編の断章によって綴られた、この小説とも、エッセイとも、評論とも言えるような――そしてそのどれにも当てはめることの困難な――物語は、つねに「幻のイマージュ」をめぐって展開されている。それは些細なミスから、あるいはちょっとした偶然からけっして写されることのなかった数々の「写真」の記憶である。あるいは石と化し永遠に凝結されることから逃れた、儚い映像。
 この映像の不在に、原著刊行の前年に出版されたロラン・バルトの遺著『明るい部屋』を重ねる読者もいるだろう(本書のなかでも R.B. という人物として登場し、親しい交遊があったことを示している)。だが、バルトが不在の映像――「温室の写真」と呼ばれる彼の母親の写真――を軸に写真を語るのに対して、ギベールは執拗なまでに映像の不在、ないしは非在について語っている。「それはかつてあった」という写真のノエマは、映像から物語へと転写されて私たちの前に示される。この、写真について、あるいは写真を媒介として自らの欲望を語るギベールのエクリチュールは、しかし、あらかじめ失われた非在の映像が、彼を媒介として写真の欲望を語るかのように二重化されている。
 本書の終わり、その最後の断章で彼はいう。
「この物語はぼくの秘密なんだ。……どうか口外しないでくれ」
 と。この「秘密」が帰属するところ、あるいは秘密そのものとしての写真。それが「幻のイマージュ」なのだろうか。
エルヴェ・ギベール著『幻のイマージュ』
堀江敏幸訳/集英社/初版:1996/ISBN4/本体価格:1,500円
Herve GUIBERT(エルヴェ・ギベール)氏は1955年生まれ。フランスの小説家。1991年12月27日没。
主な邦訳書:『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(佐宗鈴夫訳、集英社、1991年)、『憐れみの処方箋』(菊地有子訳、集英社、1991年)、『召使と私』(野崎歓訳、集英社、1993年)、『写真書物』(ペヨトル工房、1994年)ほか。また、写真評論家としても活躍し、未邦訳の写真評論集が仏ミニュイ社より刊行されている。