officetrap
- - - - - - - - - -
home
contents
english pages
- - - - - - - - - -
西井一夫著『写真のよそよそしさ』書評
(『アサヒカメラ』1996年xx月号、朝日新聞社刊)
- - - - - - - - - -
about office trap
- - - - - - - - - -
art direction [books]
art direction [CDs]
leaflet design
DM & flyer design
editorial design
e-commerce product
- - - - - - - - - -
price list
- - - - - - - - - -
text archive
- - - - - - - - - -
event & exhibition
- - - - - - - - - -
mail
- - - - - - - - - -
この数年、作家論、作品論を含めた「写真論」の著作は数多く刊行されているが、そのなかでも本書は、まず読まれるべき一冊であるといってよいだろう。これまでのこの著者の著作と同様に、本書もまたこの時代への強烈なアンチパシーに貫かれている。
 著者は「写真家」に向けて問う。いったいあなたたちは「誰」なのか、と。あくまでも「誰」who を問うているのであって、「何者」what であるのかを問うているのではない。なぜなら〈「なに」は他人との共通点である場合が多く、「だれ」は逆に他人と異なるその人の唯一性なのである〉からだ。しかし言うまでもなく「唯一性」はそれ自体では、自らを証明することはできない。田崎英明はこれを明快に定義している。それによれば「何者」what を問う問いは〈社会的な問いであり、社会的分業の中での(主体の)ポジションに関する問いであり、したがって合意が存在しうる〉のであり、ここで言う「社会」とは〈共同主観的な合意が可能であるかのように振る舞う領域〉を指す。そこには他者が不在である。すべては「われわれ」という主語によって内面化されている。一方で、「誰」who を問う問いは〈政治的な問いであって、それは、つねに他者との闘争においてしか答えられない〉ものだ。西井の問いは、「誰」を問うことによって、この政治学の存在を意識の俎上に載せる試みであると言ってよい。それは他者なき国家=日本の閉塞的な状況と相似をなす写真表現の現在に対して、苛立ちとともに向けられている。
 近代によって産み出され、同時に近代を胚胎した「写真」というメディアは、これもまた近代の成立によって編制されるナショナリズムと深く結びついている(たとえば『ライフ』に代表されるグラフ・ジャーナリズムの成立以降、それは決定的となった)。しかし、あらゆる事象の視覚への一元化を通じて自己同一化アイデンティフィケーションする、肥大した「視覚の拡大装置」としてではなく、むしろ写真というメディアのおそるべき他者性を示すことで、人間の――あるいはこういってよければ精神の――姿を明らかにするという態度が本書には示されている。そこでは記録としての写真よりも、写真を媒介として想起される記憶のほうによりいっそう高い価値が見いだされ、それによって写真家が「誰」であるのかが思考されてゆく。そしてまた、そこから「唯一性」を容易に均質化することなく普遍へと至る途が模索されているのだ。
 ハンナ・アーレントは、20世紀をいみじくも「全体主義の時代」と定義したが、むろんそれは第二次世界大戦での全体主義国家の敗北によって、あるいは80年代末からの「社会主義」国家の崩壊によって終焉したのではない。すくなくとも日本では朝鮮戦争を契機とする高度経済成長から「バブル経済」が破綻した今日までを一貫する消費主義=膨張主義型経済を背景として、本書中で(アーレントとともに)幾度か言及されている藤田省三の言う「安楽への全体主義」が社会の隅々まで蔓延し、またそれを補完している。別言すれば、ファシズムとは、一般に思われているように、たんに強圧をその性格とするのではなく、恵与として現れる収奪の謂なのである。西井は藤田に倣って、これにきわめて倫理的に応えようとしている。
 そのいくつかは、本書の主要なモチーフとして随所に現れている。ロバート・フランク、ダイアン・アーバス、ルイス・ボルツ、ヨゼフ・クーデルカ、ピーター・ビアード、アウグスト・ザンダーなど、評伝的に語られる写真家たちの軌跡は、なんらかのかたちで――実生活上であれ、精神的なものであれ――流浪と漂泊を刻印している。その彼(女)らの「仕事」――「労働」の成果ではなく――を跡づけることで著者は、「苦難を共有する文化」とでも言うべき、受苦の精神を垣間見せる。私たちはけっして他者の痛みを経験することはできない。しかしその「痛み」を覆い隠してしまうのではなく、またいたずらに同一化するのでもなく、それを自らと切り結ぶ途が必要なのだ。それは何よりも記憶をめぐる闘争として、本書の通奏低音となっている。20世紀はまた、組織的な大量死(虐殺)と難民の世紀であったこととそれは無関係ではない。それは出来事の痕跡すらも抹消された、あるいはその原初から「消失した出来事」としての出来事を想起することを私たちに要請する。「忘却の穴」(アーレント)への抵抗でもあるだろう。
西井一夫著『写真のよそよそしさ』
みすず書房/初版:1996/ISBN4/本体価格:2,500円
西井一夫(にしい・かずお)氏は1946年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。毎日新聞社の編集者として、『カメラ毎日』編集長、毎日新聞社出版局クロニクル編集長を歴任、2000年に同社を退職。2001年没。
主な著書:『写真というメディア』(冬樹社、1981年)、『日付けのある写真論』(青弓社、1981年)、『暗闇のレッスン』(みすず書房、1994年)、『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社、1996年)、『写真的記憶』(青弓社、1998年)、『20世紀末写真論・終章――無頼派宣言』(青弓社、2000年)、『写真編集者』(窓社、2001年)ほか