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経験の分有、あるいは他者の共同体
(『YJP News Letter Ga-rang』2号、1997年8月、YJP 事務局刊)
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韓国から来た女の子と、沖縄で会った。別れ際にお互いのアドレスを交換し、幾度かエアメイルを交わしたり、夜、なんとはなしに電話をかけたりしている。彼女は日本語を、僕は韓国語を知らない。当然のことだが、通常あるような「会話」は殆ど成立しない。言い澱んだり、つっかえたり、時には片言の英語を交えたりしながら、辞書を傍らに置き、手紙を読み、受話器に耳をそばだてる。沈黙と、途切れがちないくつかの言葉、そして「分からない(Sorry, I can't understand)」――僕たちの対話は、事実、これだけだと言ってよい。
 これが跛行的なコミュニケーションであることは疑いない。伝えようとする言葉は可能な限り単純化され、それもごく僅かを不格好に語ることしかできないもどかしさがそこにはつねに付き纏う。
 饒舌さを失った、沈黙のコミュニケーション――むろん「沈黙」それ自体が目的ではないが、けれども僕はこのコミュニケーションのありように奇妙な居心地の良ささえ感じている――、実際にこの営みが避けがたく直面する沈黙と吃音の経験は、「他者」との出会いあるいは出会い損ねという出来事の一様態でもある。そして、私たちはこうした出会い(損ね)に基づくコミュニケーションを通じて、自らをある〈問い〉の方へと開いているのではないだろうか。
 それは、他者と出会うことはいかにして可能なのかというひとつの問いであり、同時に、他者と/の経験を互いに分かち持つこと、経験の分有についての問いである。傍らにあり、対峙し、ともにあり、そして擦れ違うといった、〈関係〉において、私(たち)は自らが所属し、表象=代行リプレゼンテーションする共同体の外へと向かい、あるいは複数の共同体を横断し、それらの〈あいだ〉の空間を発見/発明することになるだろう。したがってその空間――こう言ってよければ非‐場所としての〈空間〉であり、自らを翻訳するという、自己同一性アイデンティティが不安定なまま宙吊りにされる場――へと自己をさしむけるものとしての経験* による新たな公共性の形成が、ここでの〈問い〉には担われている。
 たしかにそれは困難なことかもしれない。しかし私たちは、その「困難」が何に由来するものなのかを問い質してみるべきなのだ。そして、均質化した「日常」を斜めに横断するときにはじめて私たちは他者と出会うことができるのかもしれない。
 他者を迎え入れ、また自らが他者となること。そのような脱‐自としての経験を媒介に生きられる、差異が生成する〈空間〉としての共同体――それは他者の共同体、すなわち何者でもない者たちの共同体である。
 それは困難であると同時に、至るところに見出すことができる。たとえば「国際避難都市」に象徴される、国家理性に抵抗する都市の倫理のなかに。たとえばフェスティヴァルの空間で交わされる見知らぬ者同士の歓待のなかに――。

*(原註)
フィリップ・ラクー=ラバルトはこの経験について次のように言っている。

詩が翻訳するもの、それを私は経験と呼ぶことを提案する。ただしこれには条件がある。それは、経験[experience]という言葉――ラテン語の ex-perri、つまり危険を横断すること――を厳密に理解し、とりわけ、なんらかの「体験[vecu]」ないし何らかの挿話にものごとを帰することのないように注意するという条件である。(フィリップ・ラクー=ラバルト『経験としての詩』、谷口博史訳、未來社、1997年、p.50、強調原文)

言うまでもなくこの経験は、同一性と均質化を基礎として編制された共同体――例えばアイヌ、琉球、在日朝鮮・韓国人、聾者等を周縁化し、それらの人々の「言語」を公共空間から追放して国語化(皇民化)を推進した近代「日本」――に亀裂を生じさせるものでもあるだろう。