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笠原美智子著『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』書評
(『図書新聞』1998年4月18日号、図書新聞刊)
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今日の後期資本主義社会を生きる私たちにとって、およそあらゆるものは性化ジェンダライズされている。それは性についての言説を生み出すとともに、何かしらについて語ることがつねに性的な隠喩を伴なうという欲望のイメージ空間を形成するだろう(とりわけ性=快楽の代替物としての「商品」というフェティシズムの蔓延において)。欲望はその対象をさまざまに転移し、拡散しつつ、みずからを生成する(再)生産過程のなかで、対象を簒奪=固有化アプロプリエイトし、属領化する。したがって、欲望の対象について語ることは、同時に境界画定されたジャンルの閉域と分かちがたく結びついている。
 一見、中性的である(とされる)芸術表現においても、このことは例外ではない。男性/女性という性差が――見る主体/見られる客体と相即するという、旧弊ではあるが未だに強固な図式はむろんのこと――「芸術の自律性」を主張するモダニズム‐フォーマリズム芸術においてさえ、性差の問題を芸術の非本質的な「外部」として排除し隠蔽することで「男」の眼差しに貫かれた視線の政治を温存させてきたことに留意すべきだろう。
 そのような「支配する物語 master narrative」(C. オーウェンス)への抵抗としてフェミニズムの表現が顕在化し、組織されていったことはその意味で必然であった。だが、それはたんに「外部」を導入することによって「芸術」の延命を企図する中心/周縁的な議論の焼き直しや、権利要求のような政治的公正(PC)のみを意味するものではない。言うまでもなく、それは批判と同時に当の批判対象との同一化をもたらし、制度を補完するものとして機能する。そして――この図式をまたさらに反転させなければならないのだが――にもかかわらず、現状においてフェミニズム・アートは、「芸術」への「外部」の導入、政治的運動的側面としての表現をも提示する。現状においてというのは、将来においてかつての周縁的存在が中心を担い、それが解消(無意味化)されるということを指すのではない。「現在」という任意の時制に潜在する政治を描き出し、不断の「書き直し」を実践すること、換言すれば、現実との関わりのなかでつねに現在化されるプロセスとしての表現/政治こそがそこでは問われているのだと言えるだろう。したがって、これら二つの相反する性格が同一の作品のなかに重層するフェミニズム・アートは――そのような表現を単純に政治主義的プロパガンダと見做して誹謗し、他方では脱‐政治化ないしは非‐政治化したうえで称揚するという錯誤にさらされながら――自らに書き込まれたジェンダー・ポリティクスの解体とアイデンティティの再構築を継続しつつ、芸術表現そのものの基盤さえも問い直すラディカルな批評的視点とその可能性を深化させている。
 笠原美智子氏の著作は、このように多岐に亙る問題提起を行なっている現代写真家たちの仕事の概説と、近代においてヌード写真を/が編制してきた視線の非対称性と偏差の検証とを軸に、性差を刻印された「まなざし」の制度性を明らかにする。
 本書は三章からなり、著者自らが企画した二つの展覧会(「私という未知へ向かって――現代女性セルフポートレイト」1991年、「ジェンダー――記憶の淵から」1996年、ともに東京都写真美術館)のカタログ・テクストを再構成したうえで各章に配したことで、展観のさいには不明瞭になりがちだった焦点がより鮮明となったように思える。そこでは個別の作家たちの仕事について文脈を踏まえながら紹介され、それらの作品が成立した背景とその表現の射程が手際良く纏められている。また、「いったい、誰のためのアートか?」という問いかけで始まる「視姦論――写真ヌードの近代」と題された一節は、タイトルが示すとおり、近代写真美学のレトリックに潜在する視線の政治学を分析したもので、本書の白眉と言ってよいだろう。
 全体として、フェミニズム写真批評の入門的な啓蒙書となっており、この分野では類書が少ないこともあって、長く刊行の待たれていた一冊と言える。しかし、いくつかの点が少なからず気になったこともあり、若干の指摘をしておきたい。
 本書でも参照されているリンダ・ニードは、既に邦訳のある『ヌードの反美学』(藤井麻利・雅実訳、青弓社刊)のなかで、「どうやって、またどこで、形式=形態フォーム質料=物質マター、内在性と外在性といった区別が立てられるのだろうか?」と問い、「芸術」と「猥褻」とを区別する美学形式という装置――欲望の形式化=統御という力学と、それが形成する境界画定――そのものを問題化している。笠原氏の議論は、こうした境界を撹乱する作家たちの作品に多くを負っているが、例えば大野一雄を撮った石内都の作品と、アン・ノグルのセルフ・ポートレイトの作品について書かれた二つの文章を比較すると、ともに「美しい」と評されているその言葉の温度差に疑問を持たざるを得ない。一方では、私たちの裡に内面化されたジェンダリズム、エイジズムへと周到に注意を促し、規範的な「美」のイデオロギーに対するオルタナティヴを喚起しながら、他方では、一人の舞踏家の身体の特権性のみが強調されているように思われるためだ。また、他者を位置づける視線として写真が果たしてきた役割と、写真というメディアが「芸術」の「外部」ないしは二次的な表現手段として捉えられてきたこととを考えれば、本書で取り上げられた作家たちが、何故、写真を用いるのかという点についての構造的な分析があっても良かったのではないだろうか。幾多の示唆や問題提起に富みながら、本書の記述がこれまでフェミニズムの側から提出されてきた議論の枠組みを出ない平板な印象を与えるだけに、この点は残念でならない。
笠原美智子著『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』
筑摩書房/初版:1998.02.25/ISBN4/本体価格:2,600円
編集:井口かおり(筑摩書房)/装丁:鈴木成一
笠原美智子(かさはら・みちこ)氏は1957年長野県生まれ。明治学院大学社会学部卒。シカゴ・コロンビア大学大学院修士課程修了(写真専攻)。東京都写真美術館学芸員を経て現在、東京都現代美術館学芸員、東京造形大学非常勤講師。
主な展覧会企画:「私という未知へ向かって――現代女性セルフ・ポートレイト」(東京都写真美術館、1991年)、「発言する風景」(同、1991年)、「アメリカン・ドキュメンツ――社会の周縁から」(同、1993年)、「ジェンダー――記憶の淵から」(同、1996年)、「ラヴズ・ボディ――ヌード写真の近代」(同、1998-99年)ほか
主な訳書:ジョージ・レヴィンスキー『ヌードの歴史』(伊藤俊治共訳、パルコ出版、1989年)、ジョン・バージャー『見るということ』(飯沢耕太郎監修、白水社、1993年)、ロバート・ソビエゼク『カメラ・アイ』(横江文憲監修、安田篤生共訳、淡交社、1995年)ほか
主な著書:『写真 時代に抗するもの』(青弓社、2003年)、『ジュディ・データー:サイクルズ』(共著、講談社、1992年)、『写真家の時代1 写真家の誕生と19世紀写真』(共著[大島洋=編]、洋泉社、1993年)、『写真家の時代2 記録される都市と現代』(同、1994年)、『世界の写真家101』(共著[大島洋+多木浩二=編]、新書館、1997年)、『美術とジェンダー――非対称の視線』(共著[千野香織+鈴木杜幾子+馬渕明子=編]、ブリュッケ、1997年)ほか