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ニコラス・ニクソン写真展をめぐって
(『聚珍版』第6号、1998年7月、聚珍社刊)
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1988年、ニューヨーク近代美術館でニコラス・ニクソンの写真展「人々の姿(Pictures of People)」が開催された。そこで発表された、当時進行中であったエイズとともに生きる人々(PWA)を撮影したシリーズは「被写体となった人々と写真家との信頼関係」、そして「(病に冒され)衰えていく身体が描き出す生と死」の真摯な表現として、批評家たちの称賛を浴びた。
 しかし一方では、この展覧会のさなか、当のPWAを中核とするアクト・アップ(力を解放するためのエイズ連合)のメンバーによる対抗的デモンストレーションが行なわれていた。展覧会に訪れる人々に対し、「前後関係コンテクストなしの写真はもういらない」「私たちを見つめるのを止め、私たちに耳を傾けなさい」等と書かれたビラを手渡し、PWAである肉親や活動家たちのスナップ写真を見せながら、彼らがいかに生きている(いた)のかが語られる。それはPWAの生を肯定し、前面に打ち出すことで「エイズ=死」というステレオタイプの偏ったイメージを顛倒させる実践にほかならない。
 このエピソード (1) には――表象の政治をめぐるさまざまな問いが孕まれていることは言うまでもないが――写真の物語をめぐる陥穽が特徴的に現われてはいないだろうか。
 写真は現実の機械的相似アナロゴンとしてのイメージを私たちに提供し、そのイメージは、たしかに物語の諸要素を形成するだろう。だがしかし、写真の物語は、けっして写真それ自体によって語られることはない。西村清和によれば、写真(カメラ)は写し撮られた状況に物語構造を、写真家はそれに語りの視点をそれぞれ与え、そして、写真の物語の発話そのものはそれを見る者に要請され委ねられている (2) 。写真はなにも語らないが、発話主体の語りの欲望をつねに喚起するものとしてあるのだと言えるだろう。あたかも航海者を誘惑するセイレーンの歌声のように、写真は私たちにはたらきかける。
 ニクソンの撮影したPWAの肖像に対する批評家たちの言葉は、なるほどたしかに俗耳に馴染みやすい。だが、それは写真装置によって構造化された物語の位相を現実へと投影することによって生じた誤謬に過ぎない。さらに写真家によって与えられた語りの視点は、「PWA=エイズの犠牲者=死にゆく者」という従来からあったエイズ/HIV感染者への偏見を反復するものにほかならなかった。それぞれの主観はどうあれ、こうした立場に共通しているのは、写真を透明なメディアと化し、そのうえで被写体となった人々の生もろともに、先験化され一般に信じられている物語へと再コンテクスト化=収奪する点であることをここで確認しておこう。
 写真の物語を語り出すこと。それは、私たちの眼差しを編制する自明化された制度を再審に付し、規範化された所与のコンテクストにおいて透明化する写真そのものをいま/ここに可視化させる試みであるだろう。

1)ダグラス・クリンプ(石塚久郎訳)「エイズと共に生きる人々の肖像」/ 田崎英明編著、田崎・村山他訳『文藝スペシャル・3 エイズなんてこわくない――ゲイ/エイズ・アクティヴィズムとはなにか?』(河出書房新社、1993年11月刊)所収、pp.192-5 を参照
2)この点については西村清和『視線の物語・写真の哲学』(講談社選書メチエ、1997年6月刊)が詳細に論じている。とりわけ第1章、第6章を参照