ブートレグ・インタヴュー/ヘアート・ロフィンク (『Junxion; Der destruktive Charakter』vol.1、1998年9月刊、office trap) インタヴュー/構成:岡井友穂 通訳:森下美和(インターメディウム研究所) |
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ヘアート・ロフィンク氏はアムステルダムを拠点に1980年代から活動している著名なアクティヴィスト。スクウォッティング(空き家不法占拠)運動からミニコミ、自由ラジオ、コンピュータ・ネット等の自律的メディアの実践と理論化に取り組み、'93年より中欧と東欧の自主独立メディアを支援する「プレス・ナウ」の活動を始める。 彼は'96年12月にインターメディウム研究所(IMI)の招聘で来日し、東京と大阪で講演とフィールドワークを行なった。このインタヴューは、その際に『アサヒカメラ』誌 '97年3月号掲載記事のために収録されたものの全文である。(掲載時には誌面の関係上、多くを割愛せざるを得なかった) 転載を快諾して戴いた岡本なるみ氏(当時)ほか同誌編集部の皆さん、さまざまな面で便宜を図ってくださったIMIのスタッフ、そしてヘアート・ロフィンク氏に深く感謝します。 岡井友穂(O.T.) 日本では、ここしばらくの間でようやくメディア・アクティヴィズムについて知られ始めたところです。今日はまず、そこから話を始めたいと思います。既にいろいろなところでお話をされているとは思いますが、ヘアートさん自身と、それからヘアートさんの関わっているプレス・ナウの活動についての紹介をして頂きたいと思います。もうひとつは現在、新宿西口で起こっている出来事について――私の考えでは、たとえばサパティスタの動向ですとか、世界中の至る所で起こっている虐げられた人々の蜂起と極めて密接な関係があると思うのですが――コメントを頂ければ、と思っています。
■■■メディアが産み出すジェノサイド ヘアート・ロフィンク(G.L.) 1993年にプレス・ナウの活動は始まりました。ちょっと遅かったんですが。 旧ユーゴスラヴィアの状況について知るために、西ヨーロッパの我々には2年かかったのです。ベルリンの壁の崩壊の後、自由と幸福の雰囲気が漂っていたのですが、驚くべき事態もまた非常にはやく発展していきました。革命というのがどんどん進行していったのです。旧ユーゴというのは共産主義の一部ではありませんでした。西と東のちょうど真ん中に位置していましたから。'89年の出来事の後すぐに世界中の目は湾岸戦争の方に向かいました。東ヨーロッパでは共産主義が崩壊した後に、ナショナリズムが再び抬頭してきました。旧ユーゴの状況というものは非常に混乱したもので、あまりはっきりしたものではありませんでした。民主主義と古い共産主義、スターリン主義といったもののはっきりとした違いはありませんでした。そこで戦争が'91年に起こった時に、それは湾岸戦争のすぐ後だったので多くの人々に驚きを与えました。 私にとっても民族グループの問題や小さな国家に対応するのは非常に困難でした。ヨーロッパでは誰もがそういった状況に対応する術や、はっきりとしたコンセプトを持っていませんでした。どうして彼らはそんなに怒っているのか、敵意を持っているのかが理解できなかったのです。民族の間の緊張感や均衡が複雑で、善悪の判断をつけるのが非常に困難な状況だったのです。メディアの状況もまた、同じように判断しづらいものでした。旧ユーゴの中では。'92年か'93年くらいになってやっと戦争の本当の原因というものがプロパガンダ・マシーンというものに組織されていたことが解ったのです。つまりナショナリストたちがメディアに対して非常に大きな影響力を持っていて、特にテレヴィを通じて操作していたのです。ある特定のグループを憎むことは自然なことで変更できることではないといったようなことをです。それは本当は誤っています。それは人工的に創られた憎悪で、'89年から'91年にかけてこのキャンペーンは続いていました。'91年から'92年にかけてそこでなにが起こっているのか、その歴史やバックグラウンドがようやく理解され始めました。そこではメディアというものがどれほど重要か、ということもです。でも、それは遅すぎたのです。すでに戦争は始まっており、サラエヴォや各地で多くの人々が殺されていました。解決策を探すときに1ヵ月、2ヵ月先にではなく、本当にこの戦争を終わらせるためにメディアの独占、特にも国家によるメディアの独占はなくならなければならない。そういった国家のプロパガンダをなくすことで本当の長期的な解決を行なわなければならないのです。 プレス・ナウの活動というのは――スイスやスウェーデン、イギリスでも同じような組織があるのですけれども――小さなメディアをオーガナイズしている人々を援助しています。そういったマスメディアのプロパガンダというものや民族間の敵意を煽る情報に対抗しようとしている人々を支援しようとしているのです。 戦争の時期に一番大事なことは難民を助けるということです。何万人という人々が西の方に避難してきています。でもそういった人々を助けることも大切ですが、メディアの観点からしても長期的に本当の平和を考えたときにはこうした事柄を考えなければならないのです。西からの援助は、薬や食料品等の「人道的援助」というものがほとんどなのですが、でも、戦争が終わった場合――それがいつかは解りませんが――メディアの問題がまた突然、戻ってくるでしょう。それは簡単なことではなく、我々が分析するには、それこそが本当の戦争の原因だったからです。こういった考えを多くの知識人やアクティヴィストたちと共有しています。ですから我々のキャンペーンでは資金を集め、意見の交換やジャーナリストを育てるといった活動をしています。旧ユーゴの多くのジャーナリストが職を失っています。あらゆるレヴェルのメディアの人々が、そうした国家の中で嘘を書くことを拒否したので職を失くしているのです。多くの国でこういったプロセスは変な形で民営化されてしまっています。社会主義的な時期には、こういったメディアは国家によって支配されていましたが、戦争の間は所謂「民営化」がされています。けれどもそれは政党によって支配されていたのです。そして、いまもこういう状況なのです。私たちは異なる立場や意見を、ラジオ・ステーションやコンピュータ・ネットワークといった形で公にしたり、雑誌や新聞を出版したりしています。 O.T. いま、ラジオの話が出てきましたけれども、それは自由ラジオのことですか? G.L. そうです。多くの場所で、ボスニアの戦争の時の非常に大変な状況の中でもそうしたものはありました。ボスニアの自由ラジオではムスリムなどの言説に対抗して存在しており、いつでも独立した状況の中に自分の身を置くということをしてきました。若い人たちがそういう自由ラジオをやっていて、戦争の時であっても「普通」の生活を望んでいました。楽しみを持つってことは人権なのだから(笑)。また、知識人によって新聞や雑誌などが創られていました。 また、FAMAは大変な状況の中でもラジオやポップ・ミュージック、グラフィック・デザインとかそういうことを続けていて、ある意味で彼らは「サヴァイヴァル・アーティスト」と言えると思います。彼らの活動は現在も続いていますよね。非常に強いムーヴメントで演劇や映画のフェスティヴァル等をやっているし、パフォーマンスなんかもやっています。西側とも強く結び付いて……。多くのグループのメンバーはバラバラになってしまって、ひとりはニューヨーク、ひとりはベルリンというように、離れ離れになりながらもそれぞれが結び付いている。ワールドワイドな、既にナショナリズムとは全く違うものですよね。別の場所で生まれて、家族はここで兄弟はそこ、国籍はまた他所にあって、というような。 ■■■スクウォッティングの政治学 O.T. 日本の文化状況のなかでは、そういったことは非常に見えにくいように思います。ただ、見方を変えればネットワークのコネクトの仕方、人の動きといったものはオルタナティヴ・ミュージック・シーンに関わっている人々がかなり活発に行なっています。ツアーの時にヨーロッパのスクウォッターたちのネットワークを通じて次の日の宿をとるとか、そうしたスクウォット・ハウスで寝泊まりしていたり、実際にそこでライヴをやったりしているらしい。 ロフィンクさんはスクウォッターの経験もあるそうですが、現在もやってらっしゃるのですか? G.L. 10年、15年くらい前まではスクウォッティングとかにも関わっていたけど、今は年をとってしまったから。まあ、今でもその時の家に住んでいるけれども(笑)。それは、もっと若い人たちのムーヴメントですよ。今ではレンタル料を払っているので、イリーガルではなくなっています。法律と戦って勝ち取った家に賃貸料を払って住んでいるのです。 現在では、もっとメディア方面での専門家ということになってきてしまったので、スクウォッティングの方とかはやっていないですね。海賊ラジオとかコンピュータ・ネットワーク、そういったものが最近の主な仕事です。 若い人たちと同じようなことをすることもありますけども、まあ、そんなにでもないです。例えば、そんなにすごいヴェジタリアンだということもないし(笑)、それほどラディカルなエコロジーの運動にも参加していないし。肉食に反対、というのも解りますけどね。あまりそういったことに執着はないです。 ただ、言っておきたいのは、スクウォットはライフ・スタイルではなく、政治の問題なのだということです。人々はスクウォッティング・ムーヴメントのなかでも自分のライフ・スタイルを持たなければいけない。スクウォッティングはライフ・スタイルではないのです。それが現在のスクウォッティングの一番大きな問題で、それは私にとってはサブカルチュラル・イヴェントなのです。空き家になっているところに住む権利はあるのではないかと思うのです。 O.T. 私自身がインディペンデントのパブリック・スペースに関わっていることから類推して言うのですが、何人かがスクウォッティングしてそこに住みますよね。そうしてそのスペースを共有化していく、それは一番最初のメディアの問題なのではないか。スペースそのもの、それ自体がひとつのメディアなのではないかと私は思います。 G.L. その通り。そしてサイバースペースは街のスペースと同じなので、私たちはそれをスクウォッティングしているのです。 O.T. なるほど。過去から現在までの活動は、そうした点で一貫しているのですね。 G.L. インターネットのプロジェクトで「ディジタル・シティ」というのがあるのですが、それは本物の街の比喩、メタファーなのです。公共の場所、街の場所、メディアの場所、それはいつもお互いに関連していると思います。だからスクウォッティング・ムーヴメントの時にメディアを扱うことに興味を持ったのです。それがずっと続いてきているのです。もうこの15年、ずっとそういう活動をしてきました。 O.T. そうですか。ところで、さっき仰っていたニューズペーパーや雑誌は日本でも購読できますか? G.L. 『メディア・マテック』の編集を5年間ほどやってましたが、この2年間、出版していません。ただ、それは今でも購入することは可能です。それから私は本をいくつか書いているのですが、それはニューヨークのセミオテクストから出版されています。それとメイリングリストですが、「ネットタイム」でネット批評の文章を読むことができます。E-mailでアクセスしてもらえばそれらをサブスクリプトすることが出来ます。 ■■■新宿の西口から O.T. 新宿西口には行かれましたか? 写真展やヴィデオ・アクティヴィストたちの興味深い活動もありますが、はじめにも触れましたように、あそこで起こっている出来事はサパティスタなどの動きと連動していると思うのですが。 G.L. 私はスペイン語が話せないのですが(笑)。他の言語だったら英語、ドイツ語、あとイタリア語も少しは出来るのに、何故だろう(笑)。 それはともかく、メキシコのサパティスタ・ムーヴメントについてですが、最も興味深いのは、彼らが小さなハイ・エイトのカメラを使っていることです。ヴィデオの扱い方とか制作、配布や流通まで行なっているのは面白いと思います。 あそこでアメリカ人がサパティスタ・ムーヴメントに果たした役割は非常に大きかったのですが、ただ、非常に誤った印象を与える事にもなってしまったと思います。サパティスタとインターネットの関係について。なぜなら、そこに作られたアイディアが出来上がってしまった。ラップトップのコンピュータや、すごい衛星通信を貧しい人々が使っていて、その一方で銃を持って徘徊しているというような、'90年代のゲリラみたいな。それはでも違うんですよね。本当だといいんだけれども。情報が出ていく時には紙のものとか、すごく旧式のメディアで行なってアメリカではじめてディジタル化される、そういう状況なのです。 サパティスタ・ムーヴメントに関わっている人々は、本当はアウトサイダーです。アメリカに住んでいるメキシコ人とか。ジャングルの人がインターネットにコネクトしているのではなくて。サパティスタの権利のための戦いというのは、サイバースペースの中で起こっていて、でも、私はもっと戦略的メディアというものに興味を持っているのです。ラジオとか新聞とかを自分たちで創っていくという、そういうやり方、それにもっと興味を持っています。そういうものを創っている人を支援したい、彼らがそういうことをしているのを注視しているだけではなく、自分たちでそれを創っている人たちを支援したい、そう思っているのです。 O.T. サパティスタそのものについての話を伺おうとした訳ではないんですね。サパティスタのムーヴメントがああして起こったことと、いま、新宿西口に段ボールハウスのコミュニティが出来てきていることっていうのは、世界史的な連続性とでも言うような繋がりがあるのではないかと思っているのです。 G.L. そうだと思います。 メキシコの場合は、政治的な組織を通してでは自分たちの意見をいえない状況にあるので、ほかに選択肢がないからそういう運動をしているのです。 それとメキシコ・シティと東京は人口が大体同じくらいなので、そういう比較は興味深いと思います。1,000万人以上人口のある都市をテン・プラス・シティと言うのですが、世界中で8から10くらいそういう都市があります。カルカッタやリオ、ロンドン、ニューヨーク……そういう都市では非常に大きな問題があります。もっと人口の少ない他の場所と較べたら、当然、問題は多いはずですが。 メキシコ・シティと新宿を比較して考えた時――ホームレスの人々について考えた時に――彼らは政治的な欲求というものを抱えています。それをアピールしたいと思っています。メキシコ・シティからはひどくかけ離れた貧乏な場所から始まった動きですよね、サパティスタの場合。でも新宿の場合は中心に向かっていきましたね。インフラストラクチュアの中心に。それはとても興味深い。それが非常に力強いことに興味を覚えました。山谷や釜ヶ崎のような見えにくい所でではなくです。 O.T. そうした場所からアクティヴィズムが立ち上がってきたことが面白いですね。 G.L. だからこそ、そこに現われてきたのです。 O.T. 新宿のアクティヴィスト・ムーヴメントを実際に見てどう思われましたか? G.L. それが成功していると言うには難しいと思います。その場所が占領されて出ていった人も数多いと聞いていますし。もちろん、まだ残っている人も多いのですが。それはまだ終わっていない。 彼らが組織をつくってメディアなどに情報を流していくことには成功していると思います。いまも例えばホームページですとか、ドロップ・アウトTVなどによって多くの人が情報を知り、怒りを感じています。そういう意味では成功していると言えるでしょう。でもやはり一概には言えないですね。 というのは結局なぜホームレスが出てくるのかというとそれは経済のせいですよね。それは経済状況のせいであって、ある特定の利益をあげる人々によってつくりだされた日雇い労働ですとか、そういう仕組みに問題があってそれは未だに続いている。でも日本ももうじき失業者がもっと増えていくでしょうし、そうした対策を根本的に考えなくてはならなくなるでしょう。 [1996.12.14 インターメディウム研究所にて] |