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吃音と跛行――あるいはユートピアの〈経験〉 [1]
(『SERIALINDEX』1°、1997年7月、seminaire bureau 刊)
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遺贈された記憶、ひとはそれをどのように受け取るのか? 別の世代の記憶、自らが主体として経験することも、目撃者として立ち会うこともなかった出来事の記憶、だが、否応なく――文字どおり、われわれの諾否を問わず、諾否以前に――われわれを拘束するような記憶を? この場合、〈どのように〉は、同時に、義務と技法の言葉である。倫理の問いにして技術の問いである。いかに受け取るべきかと、どうすれば受け取ることができるかは、ここでは同じひとつの問いである。(鵜飼哲「時効なき羞恥」、強調原文)

遺贈された記憶。この経験ならざる経験、集団的ないし集合的記憶(パブリック・メモリー)は、好むと好まざるとに拘わらず、私たちび取り憑き、けっして離れることはない。
 むろん私たち――一個の主体である私(たち)――は、それを忘れることもできる。出来事の不在の状態を忘却という機制によって封じ込め、あるいは逆に(?)確定記述された「歴史」に場所を与えることができるだろう。しかし、そうしたところでそれが私たちに憑依するそのことが抹消されることはない。それはいわば小さな疵として痕跡を残す。切断された臍の緒の痕跡が身体にいつまでも残り続けているように(主体とはこの切断、疵を起源に持つものであるだろう)
 フィリップ・ラクー=ラバルトは、そのパウル・ツェラン論のなかでヘルダーリンの読解をつうじて、この経験について語っている。

詩が翻訳するもの、それを私は経験と呼ぶことを提案する。ただしこれには条件がある。それは、経験[experience]という言葉――ラテン語の ex-perri、つまり危険を横断すること――を厳密に理解し、とりわけ、なんらかの「体験[vecu]」ないし何らかの挿話にものごとを帰することのないように注意するという条件である。(フィリップ・ラクー=ラバルト『経験としての詩』、谷口博史訳、強調原文)

彼は続けて言う。「詩がみずからを関係づけながらも[se rapporte]報告することのない[se rapporte pas]特異な出来事の際に場所をもち生じることのなかったもの、起きることのなかったもの、到来することのなかったもの(強調は引用者)と。すなわち、ついに私(たち)に訪れることなく、つねに他者のものとしてある、非‐場所としての経験――それを語り出すために私(たち)は他者の目で見、他者の耳で聴き、他者の口で語ることを要請されるだろう。そのようなものとしての〈経験〉の(不)可能性へとさし向けられた〈問い〉への応答こそが私たちの課題なのだ。

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