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吃音と跛行――あるいはユートピアの〈経験〉 [2]
(『SERIALINDEX』3°、1997年11月、seminaire bureau 刊)
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起きることのなかった出来事が横断する線分、遺贈された記憶、主体に穿たれた裂け目としての〈経験〉……。それは主体を脅かし、その帰属するところのものとの同一性に亀裂を生じさせる。われわれはつねにすでに〈経験〉から切り離されてあるのであり、誰もそれを所有することはできない。したがって、この経験を共有しようとするならば、その時、私(たち)はこの世界に/から打ち棄てられてあるよりほかないだろう。(この自覚なしに経験の所有を目論むならば、そうした者たちは美学化された政治の罠に足を取られざるを得ない。たとえば広島、長崎の被爆者たちを「唯一の被爆国」=日本というフィクションへと回収する者たち、たとえば「アウシュヴィッツ」という固有名に代表される「絶滅収容所」を否定しようとする歴史修正主義、また、それとは逆に? ユダヤ国家=イスラエルによるパレスチナ・アラブの圧殺に荷担し続ける者たち、etc. etc. ……)
 しかし、それならば私(たち)はそれらを自らの言葉で語ることができるのだろうか。経験を語る言葉、「証言」は一体、誰に、何に属するものなのか。
 これは奇妙な問いだろうか? すくなくとも私(たち)が経験について一般に考えるのは、それがある主体に固有のものとしてあるという前提なのだから。それが個人のものであれ、共同体のものであれ、経験をそうした主体から切り離して思考することはできないのではないだろうか。
 だが、繰り返し強調しておかなければならないが、われわれの経験とはけっして「体験」へと還元されるものではない。出来事の固有性はそれを体験する主体の側にあるのではない。それは出来事そのものとしてある。だが、私(たち)は誰でも――たとえそれが自分自身、過去に体験した出来事であったとしても――いま現在の場処からしかそれを語ることができず、その隔たりにおいて、主体は自らの同一性に経験の根拠を求めることはできない。ただ、差異を孕みつつ反復する記憶によってのみそれを語ることができるのである。経験とは、したがってこうした語り(証言)の偏差にこそその場処を持つものであるだろう。しかし、それはそのつど生成するものである以上、それ自体としては非‐場処として現前する性格のものなのだ(ベンヤミンは「翻訳者の使命」のなかで、翻訳の言語について語っていたはずだ。翻訳とは、ある言語から別の言語へのたんなる移替えなのではなく、複数の言語間にたちあらわれる純粋言語へと至る営為なのだ、と。帰属する場処を持たないこの純粋言語とはまったき他者の言語であり、われわれにとって〈経験〉を思考する手懸かりとなるだろう)
 非‐場処としての経験、それをここではユートピアとみることができよう。「理想郷」という一般に信じられているイメージを排し、ユートピア[Utopia]を文字通り「非‐場処[U-topia]」として思考すること。場処ならざる場処、だがそれは、かならずしも存在し得ないものとして夢見られているのではない。たとえば「国際避難都市」が示す可能性は、こぅしたユートピアの潜勢力なのではないだろうか。
 「万国の国際市民よ、もう一息の努力を!」(J.D.)……外国人、同性愛者、浮浪者、病者、その他もろもろの少数者にレッテルを貼り「浄化」の対象とする共同体(国家理性)に抗して、都市の倫理はわれわれにそう呼び掛けている。必要なのはマジョリティによる専制の空間でもなければ、少数者と多数者のそれぞれの帰属をめぐる対立でもない。国民国家という想像の共同体――その起源の暴力を隠蔽する神話的同一性――を脱構築する他なる者たちの共同体こそがここで要請されているのではないだろうか。

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